2015年8月6日更新 著者 安田泰淳(雑学研究家) 
 




静岡!お茶の産地にしたのは勝海舟だった

全国のお茶の生産量。このうち、約4割を占めるのが静岡県となっています。もともと、円爾(えんに)という人物が、1244年に宋からお茶の種子を持ち帰り、駿河(静岡県)に植えたのが始まりだとされています。


明治以降、このお茶の需要を見込んだのが勝海舟でした。欧米でのお茶の需要が急速に高まる中、日本政府はお茶や生糸などを輸出して、外貨を稼ごうと考えたのです。


その流れを察知したのが勝海舟でした。
牧之原台地の気候・土質にお茶が適していると判断し、積極的に開拓させ、時には莫大な資金援助などを行って、現在の静岡の礎を築いていったのです。


勝海舟といえば、徳川慶喜や西郷隆盛を説得し、徳川側の人間として江戸無血開城を実現させた人物です。果たして明治時代以降、勝海舟という人物は何を行っていたのでしょうか?


無血開城後、明治政府は徳川方の人間に対し静岡の移住を命じます。徳川家は700万石の収入で3万人の家臣を雇ってきましたが、静岡の収入はたったの70万石です。3万人の家臣を雇う事ができません。


実際、静岡に移住したのは1万3千人でしたが、徳川方が雇い入れる事ができるのは五千人が限界でした。 勝海舟は雇われなかった人たちに対し、再就職先の斡旋に全力を注いでいくのです。


これと並行し、家臣のお仕事を作るためにお茶の生産を行ったのです。


江戸無血開城をしたのち、徳川慶喜を護衛していた武士たちは職を失ってしまいます。やがて、武士たちは勝海舟の元へ集まり、自分たちの考えを訴えるのです。


「どうかお願いです。今から江戸城に行って切腹をしたいのです。」


勝海舟は考えます。
武士たちは無職になってしまい自暴自棄になっている。一方、俺は無血開城を行い武士の職業を奪ってしまった。そんな俺の意見など聞くはずがない。ならば、徳川に忠誠心のある武士の気持ちを利用しようではないか。


そこで、徳川家康公を祀る神社、久能山東照宮(静岡)の警護にあたらせ、新政府軍が攻めてきた時の為に守るよう訴えるのです。 


しかし・・・ いっこうに新政府軍は攻めてきませんでした。


護衛たちは申し訳なさそうに勝海舟に訴えます。
「徳川家は苦しい財政の中、自分たちはただ働き同然でお給料を頂いている。申し訳ないので、私たちも開拓をさせてほしい」


勝海舟の思惑がぴたりと当たった瞬間です。
こうして、静岡県の牧の原台地がお茶の生産地として開拓され、現在に至っているのです。


へ~~(^ー^ )/~ (雑学研究家 安田泰淳) 参考資料 歴史秘話ヒストリア


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