著者 安田泰淳(雑学研究家)



円高を阻止!榊原英資さんとは誰ですか?

為替により、右往左往している日本の経済!
今回はこんな時代だからこそ知っていただきたい人物の紹介です。


実は過去にも深刻な円高に悩まされていましたが、この円高を食い止めた日本人が存在しました。


キャリア官僚(上級公務員)だった榊原英資(さかきばらえいすけ)さんです。榊原さんはどのような手法を用いて、この円高を阻止したのでしょうか?


榊原さんは東大を卒業し、1965年に大蔵省で働く事になりました。しかし、1977年に大騒動を起こし、孤立無援に近い状態になってしまうのです。なんと、自分が働いている組織や公務員、また自民党に対して批判的な論文を発表したのです。


官僚たちは怒りました 
「なんでこんな論文を書くんだ!」


榊原さんは上級試験を合格して入庁していましたので、将来は組織のトップになれる可能性がある人物です。しかし、この一件が起きてしまい出世レースから脱落してしまいました。


時は流れ~~


1993年に政権交代が起こり、なんと自民党が野党に転落してしまったのです。しかし、翌年の1994年に自民党は社会党の村山さんを首相に担ぎ、新党さきがけも自民党に協力をする形で政権を奪い返します。


この村山内閣で大蔵大臣に就任したのが新党さきがけの代表だった武村正義さんです。


武村さん
「今の官僚制度は間違っている!霞ヶ関を改革をしなければいけない・・・ 大蔵省に素晴らしい人材はいないだろうか? おお~ 出世レースに敗れた榊原がいるではないか!」


当時、榊原さんは研究所の所長を務めており、出世レースとは無関係の人物でした。


武村さん
「榊原をナンバー2である国際金融局長に抜擢したい・・・ しかし、人事を決めるのは大蔵省の事務次官(事務方のトップ)だ!」


当時の大蔵省事務次官は10年に1人の人材といわれている才能の持ち主でした。武村さんはこの事務次官をあっさり更迭し、自分と同じ考えの人物(篠沢恭助)を事務次官とするのです。


この出来事により、前例のない大出世を果たした榊原英資さん!ここから榊原さんの快進撃が始まるのです。



資料はbloombergから

緑の線がドル・円相場です。

1995年5月、榊原さんが国際金融局長に就任しました。
榊原さんのお仕事は円高を円安に戻す事です。


1995年4月には1ドル79円75銭をつける円高の時代!巷では円高不況などとささやかれていました。


榊原さん
「この円高では日本で作ったものを海外で販売しても会社は儲からない。 統計などを調べても、この円高はあきらかにおかしい事は明確だ。きっかけさえあれば・・・」


そこで考えたのが公定歩合の引き下げです。日銀が銀行に貸し出す金利を1パーセントから0.5パーセントに引き下げたのです。


すると、海外の金融機関は日本の金融機関から安い金利でお金を借り、金利の高いアメリカの金融機関にお金を預けるようになります。円をドルに換え(ドル高になります)、このドルを預ける事で、投資家などはお金儲けをしよう!と考えさせたのです。(キャリー取引)


次の政策は市場介入です。
外国為替資金特別会計のお金を使い、とにかくドルを買って買って買いまくったのです。


さらに、榊原さんの人脈をフルに活かしました。
ジョージ・ソロスなどの投資家を非公式で会談し、円安の必然性を訴えます。また、友達のサマーズ財務副長官は通貨政策の責任者でしたので、話し合いが行われていたそうです。


そして、就任してわずか数ヶ月で1ドル100円の水準まで円安に導く事に成功したのです。この偉業にニューヨークタイムスは「ミスター円」などと賞賛する事となるのです。


時が流れ~ 財務官に出世した榊原さん


1999年、度肝を抜かす事を行ってしまったのです。なんと、退任一週間前にアメリカに根回しをすることなく、円安にするためにドルをさらに買いまくってしまったのです。


アメリカに喧嘩を売ったのです。


当時、先進7カ国との間で1987年にルーブル合意という約束を交わしていました。各国が協調して為替を安定させましょう!というものです。榊原さんはこの合意を完全に無視し、市場介入を行った結果、一ドル110円台半ばから、120円台前半まで円安になりました。


当然、怒ったのがアメリカです。
お前達がそんなことをするのなら、もう協力しね~よ


上のグラフの通り、一気に1ドル100円まで円高になってしまいました。榊原さん!あんた~ 只者ではないな(´・ω・`)ノ (雑学研究家 安田泰淳)


    







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